徘徊について考える

先回の記事に面白いコメントをいただいた。


その徘徊について考えていたので
コメントを読ませていただいてはっとした。


米作りを長く続けてきたおじいちゃんが徘徊を始めた。足に血豆を作ってまで歩き続け、水疱になって破れて、足の裏が潰瘍状態になっても痛いとも言わず歩き続ける。やめさせたいがやめようとしない、おじいちゃんをどうしたらよいか。


そのコメントは、田んぼに観察所を作って田んぼの観察をしていただき、雀や米泥棒から米を守ってくれる観察員として任命してはどうかというお話だった。


・・・そうだ、この問題のどこに見方を合わせていたのだろう。
徘徊している、と言う視点。
その一言で、歩いているというだけの動きが問題行動になってしまう、田んぼの見回りをしていても、それがさも重大な問題行動のように定義づけられてしまう。無為に歩いているだけ・・と言うように。



確かに実際足の裏が血で染まるほど歩き続けていると言うことは、ほおって置くわけにはいかないことではあるし、手当をしなくてはならない。だが、手当をしてもらえば、また歩けるようになるし歩きたくなる。手当をしてもらえば・・・命がけでやりたい仕事が出来る。


それを、ちゃんと観察委員に任命されれば、
おじいちゃんは使命感に燃えて
ますます元気になって田んぼを守ってくれるのではないか・
近所の人から、ご苦労様です、なんて言ってもらえたら、それこそ本望じゃないか。


田んぼの途中に観察小屋ってるとか、そこまでしなくても
ベンチを置くとか仕事場として環境を考えれば
きっとそこで一服しながら休むかもしれない。
足も休めるかもしれない。



だが現実の徘徊は、そんなに単純なものではないと言う
そういう意見もあるかもしれない。確かに
夜、急に起き出して外へ行ったり、信号も見ないで道路を横断したり
家や施設の中をうろうろ歩き回ったりする。
何キロも離れた知らない町まで行ってしまって帰れなくなったり
路傍で倒れていたりする。


介護する方から見ればそれは、危険きわまりない。
周りが落ち着かず、困った行動ではある。
禁止したくなり、抑制したくなる。
だってその人を安全に守りたいのだもの。


私だってそう思った。おじいちゃんの安全を守りたい。
だけど、ここで自分の見方をちょっと棚上げできないか、と言うことだ。
困ったことと、決めつけないで本人の方からちょっと考えてみようとすることができないものか。


この時期は残っている能力も活発だし、運動機能もよく動いている。
何より低下していない、歩ける。その力を
介護する人の不安の中に閉じこめることは難しい。
本人は、自分の不安?と介護者の不安を二重に背負い込む。


・・「徘徊は」その人固有の自然な行動で、しなくなると危険・・
この考え方を前に聞いたことがある。キノコのおじさんからだった、と思う。
認知症をひとくくりにしないで、
また、徘徊という言葉を教科書通りに鵜呑みにしないで
今起きている出来事から、何か見いだしたいと思った。


自分の考えは、一つしか出てこないけれど、
誰かの考えから、気づかされ自分の考えが広がっていく。
だから、みんなとつながっていること。
フレンドシップクラブはそういう場でありたい。


コメントありがとうございました。